てぃーだブログ › 南島私記

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Posted by TI-DA at

2011年07月03日

桑の葉の出会い ・・3

 ウルククンヂー
ここの小禄の学校で、運動会などの遊戯にも歌ったというわらべ歌のことを教えられた。
   小禄、豊見城、垣ノ花 三村
   三村の姉ぐわー揃とて布織り話
   あや、まみぐなよー
   むと、かんじゅなよー

 小禄、豊見城、垣ノ花は那覇の西南部にあって隣り合う村々であった。この三村の姉ぐわーたちが揃って布織り話をしている。「模様の糸すじを織り違えるなよー」「元を食い込むなよー」と、こんな意味であろうか。小禄を中心としたこの地域は織物の産地として知られていたのであったという。これが絹の織物としたら小禄田原の桑はそれとつながるものであったのか、あるいは麻の上布ならば道辺の苧麻はその名残のものかと想いをはせるのだが、そうではなかったようである。
 かって沖縄では芭蕉布とか麻織物が主体であったが、近世の初期にここに初めて木綿織りの技法を伝えたのは儀間真常であったという。儀間真常は真和志間切り垣ノ花とか、小禄間切りの地頭であった。小禄とその周辺の垣ノ花などは、地頭の儀間真常の奨励で木綿織りがさかんとなり、ウルククンヂー(小禄紺地)として知られるようになっていたのだという。小禄、豊見城、垣ノ花 三村の姉ぐわーたちの布織り話もこのウルククンヂーのことであり、絣おりの細かな糸目合わせを違えないようにとのことであったのであろう。そして田原で見つけた青苧は、真常の木綿織り以前の名残ということになるのであろうか。

 沖縄には伝統的な織物と染めの文化が多くのこされていて、古くからの手法の上に日本々土や中国とか南方からの影響を受けながら、沖縄独自の技法をつくりあげてきたものであるという。いずれも実用的には堅牢で着心地がよいことと、手工芸品としてはすぐれた優美性をそなえていることで高く評価されていた。
 それの代表的なのが紅型と絣であり、芭蕉布は麻よりも丈夫で通気性があって、沖縄の風土に最も適した織物として愛用されてきたのである。魚沼の越後ちぢみ布と同じように、青苧から糸をとって藍染めがほどこされている宮古・八重山の上布も貴重な存在である。奄美の大島紬は有名で、久米島も紬の産地であったとか。そして読谷山花織のこともこのたびの旅行で知らされた。
 
 那覇の西、約百キロメートルの海のかなたにある久米島は、短い旅程の中で訪れることの果たせえないままに話だけきいていた。この島には十七世紀の初めころに越前の人が渡って蚕を飼い糸を取ることを伝え、ややあって薩摩の人が織の技法に改良を加えることをおしえて、久米島紬の基礎をつくたとのことである。またもっと古く前々から野蚕があったところへ、十五世紀の中頃、中国から養蚕と製織の技法を学んで蚕を飼い、絹の粗布を織り出したという説もある。いずれにせよ、北の越後の魚沼ではまだ麻布織の最盛期であった十七世紀の中頃には、すでに久米島では繭から糸を取った紬がグイフ(御用布)として地租の代納物にさせられ、近世を通じて島の女性に苦役をもたらすこととなっていた。

 織物と貢租のことは何れの地にても深いかかわりがあって、そしてこれを織らされた女たちの生き甲斐と苦悩の昔語りにも、北と南のへだたりはないのだ。さらにまた、この織布が用いられていたのは、たいてい他所の地の晴れ着となっていたことも同じである。
 魚沼に養蚕と絹織りのことが、広まったのはいつのころか定かでないが、江戸時代中期の運上物七品の中に麻織布はあるが、絹物は入っていない。これが江戸時代の終わりに、このころ増えてきた紬織にも新たな運上金を課すことになると、会津街道に沿った魚沼堀之内の近郷には、抵抗する百姓の一揆が起きていた。魚沼に紬織の広まったのは南島よりもおよそ二百年の後れがあったことだけは確かなようで、近世の二百年は決して小さな隔たりではなかったのである。

 蚕桑のことは苧麻と並んで『魏志倭人伝』にもみえて、弥生時代にはすでに織られていたことを伝えている。弥生期の遺跡調査でも絹織物は見つかって、これが北九州に集中していると邪馬台国論争に指摘もある。稲作も弥生期に始まって北九州が発端とされ、それからわずかな年数の後れで東北・青森県での遺跡で発見と、近年の考古学調査は知らせている。稲の文明がいち早く全国に広まったのに、蚕桑のことばかりが千年の後れを経なければ、雪国の魚沼に行き着いてこなかったのは如何したわけかと、私には思い当たることがないのである。
 沖縄の蚕桑の始まりのこと、これも私の知ることではないが、少し気になる昔語りだけは聞いていた。常世の旅のことである。

常世の旅のこと

 小禄の丘陵を尋ねたのは三十年前の知己だけがたよりのことであって、道すがらのタクシーの中では運転の人に「浦島太郎ですね、戦後の復興で三十年前とはすっか変わっていますよ」と言われた。記憶の中では鮮明であったはずのものが強い陽射し下にただ真白となってゆくのである。
 まったく突然の訪問であったのに、翌日には南部の島めぐりに案内されて、首里の高台に立った。近世の琉球が一望に見下ろせる城跡は沖縄戦で微塵に崩壊されて、いま観光客のカメラの放列の前にあるのは戦後にいち早く復元された守礼門である。復元の当初から沖縄の象徴になっていたことは間違いないが、もっと朱の色が鮮やかでなかったかと想っていたのは、三十年前からの私の思いすごしであったのであろうか。
 首里から南風原をへて東に抜け、さらに南海岸に抜けるコースは、かって首里の国王や聞得大君(最高官位の神女)による霊所行幸の地であって、アマミキヨが天降りしたり、稲の伝来を伝えるなど琉球発祥の聖地として、古琉球の世界が広がっていた。そして、桑のこともこの古琉球の世界で語られていたのである。
 

    つづく 「.」  


Posted by sab at 02:18Comments(0)

2011年05月22日

桑の葉の出会い ・・・2

 小禄の丘陵地
 那覇市の西部に位置する小禄台地とその周辺地域はかっての小禄間切であった。間切とは琉球王府時代から明治初期にかけての沖縄の行政区画で、いくつかの村々をあわせて成立している。
 小禄間切の農耕地は明治36年統計で767町歩余、うち畑地が747町歩余となる全くの畑作地帯であった。後背山地を持たない台地であれば当然で、砂糖きびの産出と那覇近郊の蔬菜産地に開けていたのであろう。昭和元年、ここの安次嶺に県の農事試験場ができて、園芸部と養蚕部が置かれていた。
 沖縄の養蚕のことについて知るのは乏しいが、小禄の坂道で見つけた細い桑と、田原の旧友の家の前で出会った古木の桑は、かってこの台地にも桑が植えられて蚕が飼われていたことを示すのであろうか。農事試験場に養蚕部が設けられていたことと、ここの桑は無縁ではなかったはずである。

 見つけた古木の桑は、魚沼の山桑のようにいちご桑であった。


 桑の実の季節になるとその実を採ろうと子供らが集まってくるので、家主は桑の木を切ったそうであるが、私が出会ったのはそこからまた新梢が伸びて茂っていた。( 写真は魚沼で
 道辺にしばらくたたずんで、通りすがりの島の人々に無しつけな問いを繰り返すと、桑のことは知っていても青苧については首を傾ける人ばかりであった。「私は戦前からここに住んでいたわけでないので ・・・」と云うのである。
 沖縄に触れるとき忘れてはならないことは、ここが第二次世界大戦で国内で唯一の地上戦に巻き込まれた所ということで、とくに島の南部地方は激戦地となって多くの犠牲をしいられていた。那覇空港はかっての日本軍の小禄飛行場であって、アメリカ軍に占領されるとその周辺区域もほとんど軍用地に接収されてしまい、追われた地区住民は小禄の丘陵地に集まって新しい居住区を建設してきたのだという。単に青苧のことを知らない言い訳に洩らした言葉が、私には重い意味に思えた。

  
  つづく 「ウルククンヂー」  


Posted by sab at 23:47Comments(0)

2011年05月14日

桑の葉の出会い 

   小禄田原の桑
(1988年)6月の27日、南国のキラキラした太陽を想いながら、北の国の梅雨空から逃れるように羽田を飛びたつのだが、空港の案内表示では那覇は小雨とあった。新潟より一ヶ月早い沖縄の梅雨は、いつもならもう明けているはずなのに、この年は長引いていたのである。
 だが二時間半後、初めて目にする南島の空はまぶしいばかりに輝いて、たったいま梅雨が明けていたのであった。新潟とは質の異なる沖縄の陽ざしは、我われの邦が南北にのびてその風土の一様でないことを語っている。
 ムッとする熱気の中を那覇空港の東に面した丘陵地の坂道を歩いていた。小禄の丘陵地は那覇市郊外であるが、家並みの絶えない住宅地である。家々の庭木などは新潟とは違った南国の風情で、樹木の呼び名など通りすがりの私が知るはずもない。道の辺の草むらにも見知らぬものがあって、旅の道であることが実感として意識されてくる。
 この丘陵地の田原に三十余年前の旧友を尋ねての道であり、蒲葵の葉の神秘にひかれての旅であった。

 この丘陵の坂道に沿う石垣のすきまに細い桑の木が生えていた。これが内地のことであれば何のこともなく見過ごす風景のはずであったのに、南島の旅ということで、思いもよらない発見をした気持ちになって足をとめていた。発見は桑の木だけでなく、何本かの青苧も伸びていたのである。

    ( 写真は魚沼で野生の青苧:苧麻
   那覇空港に近い小禄の丘陵地でも同じ青苧に出会う
 )

 雪の魚沼で古来から織りつづけてきた越後布の原料糸になる苧麻である。桑もまた山畑を耕して、蚕を育てた魚沼の記憶がかさなるのだ。小禄田原の桑と青苧には遠い旅の先で、思いもがけもなく同郷の知己にめぐり会った思いがしたのである。そしてこの桑と青苧がここに根付いてきた歴史に想いおよぶとき、一瞬にしてこの遥かな南島が私の魚沼とかぎりなく近いものに思えてきたのであった。

桑の古木をある家の庭隅に見出して立ち止ったとき、近くで私の姿を見つけていた旧友は「桑の葉を手にして見入っているのはヤマトンチュ(大和:本土の人)に違いない」と感じながらも、それが旧知のヤマト人であったことに気付かなかったという。一別して以来二十五年の月日がすぎていたのである。

         つづく 「小禄の丘陵地」  


Posted by sab at 23:32Comments(0)